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こんにちは。京都のまっきーです^^
やーっと涼しくなってきましたね♪
京都では先日丹波マンガン記念館の復興運動として作業ボランティアに行ってきましたが、今日はそのボランティアにむけて行われた学習会について報告します!
『丹波マンガン記念館ってそもそも何?』 っていうメンバーが集まり、
朝鮮人「強制連行」の歴史と日本社会について時代背景を踏まえながら、
マンガン鉱山が開かれ当時の朝鮮人が強制労働を強いられたことに焦点をあてて学びました。
戦前の日朝関係から見てみると、1910年に韓国併合が行われるまで、日露戦争後の1904年ごろから日韓議定書や第一次日韓協約により、日本は韓国を軍事的・文化的・経済的に取り込み、さらには第二次日韓協約・第三次日韓協約により、1907年までには韓国の外交権や内政権に至るまでを掌握しました。
当時の在日朝鮮人の形成に大きな影響を与え、のちにマンガン鉱山に朝鮮人労働者が従事することとなったことと密接に関係している施策が2つあります。
1つめは、土地調査事業(1910~1918)で、当時の植民地朝鮮において、
日本政府が土地を把握し財源を確保し、またその土地にいる農民を把握するために行われました。しかし調査と言っても申告主義であり、土地を耕している農民に所有権があるのではなく、申請した者に所有権が与えられることとなりました。
当時の大多数の朝鮮人が農民であり、字が読めないことも多く、その法律の意味を理解できない人々が多かったこと、「申告をすれば税金が増える」といったうわさが広まったこともあり、申告しない農民も多くいました。
その結果、朝鮮農民の耕作地が次々と日本人地主や農業経営会社の手に渡り、かなりの農民が地税公課を負担してしまうことになりました。
2つめは、産米増殖計画(1920~1934)で、日本本土の食糧問題を解決するために朝鮮を食糧供給基地にするということでした。
朝鮮農民に米を作らせ、そのほとんどを日本に輸出するというこの施策により、
朝鮮農民の生活はさらに困窮化しました。
これらの施策により、土地も奪われ、仕事も奪われ、作物も奪われた朝鮮農民にとって家族を養うための仕事、それが出稼ぎでした。
第一次世界大戦後に急成長した日本経済は不足する労働力を植民地に求め、1917年前後に日本に渡る朝鮮人の数は大阪を中心に増加しました。
出稼ぎにきた朝鮮人は一定期間が過ぎると故郷へ帰ることが多かったものの、しだいに定住型へと変わり、家族を呼び寄せて住み続ける人が増えました。
しかし、朝鮮人の生活を取り巻く環境はとても厳しく、重労働・賃金の格差や劣悪な住環境、また日本人とは差別的な扱いを受けました。
京都では、朝鮮人に対する偏見や差別から、部屋を貸す日本人が少なかったことや、土木工事に従事した朝鮮人がそのまま飯場に住みついたことなどから、東九条をはじめ京都市内のあちこちに朝鮮人の集住地区が生まれました。
1939年からは朝鮮半島からの朝鮮人の「強制連行」がはじまり、日本各地の鉱山・炭鉱・土木工事などに従事させられました。
上記で上げた二つの施策により仕事を失った朝鮮人に対して、好条件を提示して募集という形で集められましたが、言うまでもなくその条件は嘘であり、また朝鮮の各地域に割り当てが行われ警察がむりやり若者を集めたりと、強制といっても過言ではありませんでした。
朝鮮人労働者たちは①厳しい労働②粗末な食事③自由に外出することの制限など、過酷な状況であっただけに、逃亡を図る者も多かったといいます。
京都府下での労働場所としては主にウトロ(宇治市)と今回訪れた丹波マンガン記念館がある新大谷鉱山があげられます。
新大谷鉱山では、大砲の砲身や銃身などを作るために、マンガンという鉄に混ぜて鉄を硬くする鉱物を採掘しました。
作業中はダイナマイトによる掘削や鉱石を運ぶ仕事で大変危険であり、石の埃を吸い、のちに職業病であるじん肺に苦しめられました。
何をもって「強制」というのか?
韓国併合以前より日本によって計画的かつ着実に逃げ場を奪われてしまった朝鮮人をさらに精神的・かつ肉体的に追い詰め、それでも「強制連行はなかった」という認識は全くの誤りであり、人の自由な意思を抑圧し、またそれに関して無理やりにさせることは、「強制」にほかなりません。
「強制連行」についての政府の見解や、日本人の認識についても話し合ったのですが、日本学校に通った私を含め学習会のメンバーは、「強制連行」というとアメリカにおけるアフリカ系の奴隷のようなイメージを持つこともあり、日本政府の「強制性」についての見解がバラバラであったりするので、今回の学習を通して考える機会が持てたということはボランティアにいくためにはもちろんのこと、これからの日朝関係について考え活動していく上で非常に有意義だったのではないかと思いました。
今回の学習会を通して、従軍「慰安婦」問題や年金問題などをはじめ、在日朝鮮人が抱える歴史的そして現代の問題について学び考える必要性を強く感じたので、これからも定期的に学習会を行うよう進めていきます!
やーっと涼しくなってきましたね♪
京都では先日丹波マンガン記念館の復興運動として作業ボランティアに行ってきましたが、今日はそのボランティアにむけて行われた学習会について報告します!
『丹波マンガン記念館ってそもそも何?』 っていうメンバーが集まり、
朝鮮人「強制連行」の歴史と日本社会について時代背景を踏まえながら、
マンガン鉱山が開かれ当時の朝鮮人が強制労働を強いられたことに焦点をあてて学びました。
戦前の日朝関係から見てみると、1910年に韓国併合が行われるまで、日露戦争後の1904年ごろから日韓議定書や第一次日韓協約により、日本は韓国を軍事的・文化的・経済的に取り込み、さらには第二次日韓協約・第三次日韓協約により、1907年までには韓国の外交権や内政権に至るまでを掌握しました。
当時の在日朝鮮人の形成に大きな影響を与え、のちにマンガン鉱山に朝鮮人労働者が従事することとなったことと密接に関係している施策が2つあります。
1つめは、土地調査事業(1910~1918)で、当時の植民地朝鮮において、
日本政府が土地を把握し財源を確保し、またその土地にいる農民を把握するために行われました。しかし調査と言っても申告主義であり、土地を耕している農民に所有権があるのではなく、申請した者に所有権が与えられることとなりました。
当時の大多数の朝鮮人が農民であり、字が読めないことも多く、その法律の意味を理解できない人々が多かったこと、「申告をすれば税金が増える」といったうわさが広まったこともあり、申告しない農民も多くいました。
その結果、朝鮮農民の耕作地が次々と日本人地主や農業経営会社の手に渡り、かなりの農民が地税公課を負担してしまうことになりました。
2つめは、産米増殖計画(1920~1934)で、日本本土の食糧問題を解決するために朝鮮を食糧供給基地にするということでした。
朝鮮農民に米を作らせ、そのほとんどを日本に輸出するというこの施策により、
朝鮮農民の生活はさらに困窮化しました。
これらの施策により、土地も奪われ、仕事も奪われ、作物も奪われた朝鮮農民にとって家族を養うための仕事、それが出稼ぎでした。
第一次世界大戦後に急成長した日本経済は不足する労働力を植民地に求め、1917年前後に日本に渡る朝鮮人の数は大阪を中心に増加しました。
出稼ぎにきた朝鮮人は一定期間が過ぎると故郷へ帰ることが多かったものの、しだいに定住型へと変わり、家族を呼び寄せて住み続ける人が増えました。
しかし、朝鮮人の生活を取り巻く環境はとても厳しく、重労働・賃金の格差や劣悪な住環境、また日本人とは差別的な扱いを受けました。
京都では、朝鮮人に対する偏見や差別から、部屋を貸す日本人が少なかったことや、土木工事に従事した朝鮮人がそのまま飯場に住みついたことなどから、東九条をはじめ京都市内のあちこちに朝鮮人の集住地区が生まれました。
1939年からは朝鮮半島からの朝鮮人の「強制連行」がはじまり、日本各地の鉱山・炭鉱・土木工事などに従事させられました。
上記で上げた二つの施策により仕事を失った朝鮮人に対して、好条件を提示して募集という形で集められましたが、言うまでもなくその条件は嘘であり、また朝鮮の各地域に割り当てが行われ警察がむりやり若者を集めたりと、強制といっても過言ではありませんでした。
朝鮮人労働者たちは①厳しい労働②粗末な食事③自由に外出することの制限など、過酷な状況であっただけに、逃亡を図る者も多かったといいます。
京都府下での労働場所としては主にウトロ(宇治市)と今回訪れた丹波マンガン記念館がある新大谷鉱山があげられます。
新大谷鉱山では、大砲の砲身や銃身などを作るために、マンガンという鉄に混ぜて鉄を硬くする鉱物を採掘しました。
作業中はダイナマイトによる掘削や鉱石を運ぶ仕事で大変危険であり、石の埃を吸い、のちに職業病であるじん肺に苦しめられました。
何をもって「強制」というのか?
韓国併合以前より日本によって計画的かつ着実に逃げ場を奪われてしまった朝鮮人をさらに精神的・かつ肉体的に追い詰め、それでも「強制連行はなかった」という認識は全くの誤りであり、人の自由な意思を抑圧し、またそれに関して無理やりにさせることは、「強制」にほかなりません。
「強制連行」についての政府の見解や、日本人の認識についても話し合ったのですが、日本学校に通った私を含め学習会のメンバーは、「強制連行」というとアメリカにおけるアフリカ系の奴隷のようなイメージを持つこともあり、日本政府の「強制性」についての見解がバラバラであったりするので、今回の学習を通して考える機会が持てたということはボランティアにいくためにはもちろんのこと、これからの日朝関係について考え活動していく上で非常に有意義だったのではないかと思いました。
今回の学習会を通して、従軍「慰安婦」問題や年金問題などをはじめ、在日朝鮮人が抱える歴史的そして現代の問題について学び考える必要性を強く感じたので、これからも定期的に学習会を行うよう進めていきます!
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