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京都のゆぢゃです(・ω・)♪
少し前になりますが、
9/25に朝鮮民主主義人民共和国の水害支援のための
街頭募金を行いました!!
前日にはみんなで
当日に使う垂れ幕や募金箱を
仲良く和気あいあいと作りました♪
ところで共和国では、
各地(特に北部)で、7~8月にかけて降った集中豪雨によって
全国的に5560余戸の住宅と350余棟の公共建物、生産用建物が損壊、浸水し、
1万4850余ヘクタールの農地が冠水、水没、流失したという
大きな被害が出たのです。
そして、
今回のこの豪雨により、
多大な被害を被った朝鮮の人民の方々に対して
少しでも力になれるようにと、
京都の四条河原町の交差点で街頭募金を行いました。
歩行中の皆様に少しでも関心を持っていただけるように、
そして、募金していただけるように、
さらに、大声を出すことによるストレス発散もかねて…(´∀`)
一生懸命募金活動した結果…
な、なんと、、、
10949円もの額の募金を集めることが出来ました(パチパチ
2時間もの時間をかけて
募金活動をやった甲斐がありました!!(>_<)
一緒に募金活動を行ったみなさま
本当にお疲れさまでした!!
そして、募金をしてくださったみなさま
本当にありがとうございました!!
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こんにちは、のんたんです。
会議を重ね、サムルノリの練習に励んだフレンドシップコンサートが
ようやく終わり、楽しかった思い出を胸に、ひとまずはホッとしているところです。
今日は9月12日から3日間開かれた朝鮮語講座の様子を報告します。
まず、1日目。
この日は、前日まで訪朝していたメンバーも参加!
ハングル検定でいう5級の動詞活用と歌「ウリエソウォン」を学びました。
日本人の私が統一の歌を歌うのは少し変な感覚(?)でしたが、素朴で綺麗なメロディーでした。
2日目は、朝鮮学校出身の人を先生に、4級の動詞活用を教えてもらい、
仕上げにアイスをかけてチームで出来を競いました(笑)
3日目は、参加していないのですが、朝鮮語でゲームをしたそうです!
さて、皆さんは「言語」にどんなイメージを持っていますか?
グローバル化が進む現代。
外国語の一つや二つ習得するのは当たり前、有利、習得する外国語は情報をやり取りするためのツール、
といった言語に対する軽い雰囲気があるように思います。
私も最近まで漠然とそのように感じていました。
例に漏れず、私も韓流にはまった人で、朝鮮語で直接会話したい!聞きたい!と思っていましたから。
しかし、「言語」というものについて考え直すきっかけがありました。
それは、マンガン記念館の事前学習後の食事会でのこと。
その日は日本人学生ばかりが集まっていたのですが、そのうちの2人が「私達が朝鮮語を気安くしゃべってイラっとこないか」という質問を在日朝鮮人学生にしたことがあるという話が持ち上がりました。
この時、私は「はっ」と衝撃を受けました。
この日まで私は大学で習いたての朝鮮語を話す環境があることが嬉しくて、
「ミアネー」や「コマウォー」などを所々会話で使っていたからです。
詰まるところ、何も考えていなかったのです。
近年、朝鮮学校の学費支払いが厳しいため日本人学校に通い、日本語しか話せない在日3世、4世の子が多くいます。
本質的に今回の講座もこの子達のために開かれたものです。
日本社会で暮らす在日朝鮮人にとって、朝鮮語いう「言語」は情報交換のツールより、民族、アイデンティティを知る、確かめるための大切な要素なのです。
一方で、日本に住み、当然のこととして日本語をしゃべる日本人は「言語」=アイデンティティという関係を軽視しがちであり、これが結果として「民族教育」への無知、反発へとつながっていってはないでしょうか。
私はそのきっかけの日から、日朝の場での朝鮮語(挨拶とかで)の使用を戸惑うようになってしまいました。
しかし「これは何か違う」と感じ、私は自分なりに色々考えました。
その結果、「外国語習得をする時には、単なる言語習得にとどまらず、(理解できようができまいが)
外国語の持つその国の事情、感性、文化様式等も含めて習得できるように努めるべきなんだ」と思うようになり、今はまた「スゴハッショスムニダ」と挨拶できるようになったしだいです。
朝鮮語一つをとっても、在日朝鮮人の方が抱える問題がみえてくることを、今回は学んだのでした。
おわり。
会議を重ね、サムルノリの練習に励んだフレンドシップコンサートが
ようやく終わり、楽しかった思い出を胸に、ひとまずはホッとしているところです。
今日は9月12日から3日間開かれた朝鮮語講座の様子を報告します。
まず、1日目。
この日は、前日まで訪朝していたメンバーも参加!
ハングル検定でいう5級の動詞活用と歌「ウリエソウォン」を学びました。
日本人の私が統一の歌を歌うのは少し変な感覚(?)でしたが、素朴で綺麗なメロディーでした。
2日目は、朝鮮学校出身の人を先生に、4級の動詞活用を教えてもらい、
仕上げにアイスをかけてチームで出来を競いました(笑)
3日目は、参加していないのですが、朝鮮語でゲームをしたそうです!
さて、皆さんは「言語」にどんなイメージを持っていますか?
グローバル化が進む現代。
外国語の一つや二つ習得するのは当たり前、有利、習得する外国語は情報をやり取りするためのツール、
といった言語に対する軽い雰囲気があるように思います。
私も最近まで漠然とそのように感じていました。
例に漏れず、私も韓流にはまった人で、朝鮮語で直接会話したい!聞きたい!と思っていましたから。
しかし、「言語」というものについて考え直すきっかけがありました。
それは、マンガン記念館の事前学習後の食事会でのこと。
その日は日本人学生ばかりが集まっていたのですが、そのうちの2人が「私達が朝鮮語を気安くしゃべってイラっとこないか」という質問を在日朝鮮人学生にしたことがあるという話が持ち上がりました。
この時、私は「はっ」と衝撃を受けました。
この日まで私は大学で習いたての朝鮮語を話す環境があることが嬉しくて、
「ミアネー」や「コマウォー」などを所々会話で使っていたからです。
詰まるところ、何も考えていなかったのです。
近年、朝鮮学校の学費支払いが厳しいため日本人学校に通い、日本語しか話せない在日3世、4世の子が多くいます。
本質的に今回の講座もこの子達のために開かれたものです。
日本社会で暮らす在日朝鮮人にとって、朝鮮語いう「言語」は情報交換のツールより、民族、アイデンティティを知る、確かめるための大切な要素なのです。
一方で、日本に住み、当然のこととして日本語をしゃべる日本人は「言語」=アイデンティティという関係を軽視しがちであり、これが結果として「民族教育」への無知、反発へとつながっていってはないでしょうか。
私はそのきっかけの日から、日朝の場での朝鮮語(挨拶とかで)の使用を戸惑うようになってしまいました。
しかし「これは何か違う」と感じ、私は自分なりに色々考えました。
その結果、「外国語習得をする時には、単なる言語習得にとどまらず、(理解できようができまいが)
外国語の持つその国の事情、感性、文化様式等も含めて習得できるように努めるべきなんだ」と思うようになり、今はまた「スゴハッショスムニダ」と挨拶できるようになったしだいです。
朝鮮語一つをとっても、在日朝鮮人の方が抱える問題がみえてくることを、今回は学んだのでした。
おわり。
9月の4~5日、日朝友好学生の会@京都は丹波マンガン記念館の再建作業ボランティアに行ってきました!
車で1時間、丹波マンガン記念館にたどり着くと、まず、李龍植館長が記念館の中にある施設や強制連行の歴史について説明をしてくださいました。
飯場(作業員が生活する場所)の説明風景
マンガンを運ぶために利用した車。駅まで運ばねばならず、とても長い距離を歩かされたそうです・・・。
いくつか説明を受けた後、いよいよマンガン鉱山の中へ・・・
マンガン採掘に使われた坑道
当時働かされていた朝鮮人労働者たちは、この坑道を支えている坑木がミシミシと音を立てるの聞いて崩落の危険を察知したそうです。命がけの作業でした。
このような過酷な労働条件であったにもかかわらず、食事が十分に与えられなかったり、給料が支払われなかったりしました。
このような状況は日本各地に存在しているわけですが、日本による加害の歴史を表す公営の博物館は日本には存在しません。丹波マンガン記念館のように、なんとか民間で運営しているというのが現状です。
加害の歴史を認め、公営の博物館をつくるよう国に訴えかけていくのはもちろんですが、他にも何かできることがあるはず、そんな思いで今回のボランティアに参加しました。
今回は土砂で埋もれた水路の掃除と丸太の皮むき作業を行いました。
この日はとても暑い日となりましたが、休憩を取りつつ日が暮れるまで作業を続けました。
そして作業の後は、やっぱりみんなで焼肉パーティー!
焼肉パーティーで何があったのか??
今回は今年から日朝友好学生の会@京都の活動に参加するようになった新メンバーにもブログを書いてもらったので、最後はそちらの方に譲りたいと思います☆
9/4から二日間、丹波マンガン記念館の修復作業に行って参りました。参加者には私の知らない方もちらほらといらっしゃったので初めは緊張しました。しかし、鉱山開発当時の強制労働を髣髴とさせるような過酷な作業を炎天下の中で行っている内に、いつしか緊張も解け、皆さんと楽しい時間を過ごすことができました。
夕食では、沢山の焼肉とお酒を頂きました。
そして、何よりも嬉しかったのが記念館の館長さんとじっくりと話をすることができたこと。何十分彼と話したかは分かりませんが、強く記憶に残っている言葉があります。それは「朝鮮人ではなく、日本人が変わらなければならない。」という言葉です。
私は日本人ですが、日本人は朝鮮人に対する加害の歴史を学ばなければいけないと考えています。日本人が朝鮮人との間に本当の友好関係を築く為に、です。そして、加害の歴史を学習する為の場として、丹波マンガン記念館は必要であると強く感じました。
今回のイベントを通じて、私は日朝関係について多くを学ぶことができました。また同時に自分の無知を痛感しました。これからも文献を読んだり、実際に歴史の現場を見ることによって日朝関係について勉強したいと思います。
車で1時間、丹波マンガン記念館にたどり着くと、まず、李龍植館長が記念館の中にある施設や強制連行の歴史について説明をしてくださいました。
飯場(作業員が生活する場所)の説明風景
マンガンを運ぶために利用した車。駅まで運ばねばならず、とても長い距離を歩かされたそうです・・・。
いくつか説明を受けた後、いよいよマンガン鉱山の中へ・・・
マンガン採掘に使われた坑道
当時働かされていた朝鮮人労働者たちは、この坑道を支えている坑木がミシミシと音を立てるの聞いて崩落の危険を察知したそうです。命がけの作業でした。
このような過酷な労働条件であったにもかかわらず、食事が十分に与えられなかったり、給料が支払われなかったりしました。
このような状況は日本各地に存在しているわけですが、日本による加害の歴史を表す公営の博物館は日本には存在しません。丹波マンガン記念館のように、なんとか民間で運営しているというのが現状です。
加害の歴史を認め、公営の博物館をつくるよう国に訴えかけていくのはもちろんですが、他にも何かできることがあるはず、そんな思いで今回のボランティアに参加しました。
今回は土砂で埋もれた水路の掃除と丸太の皮むき作業を行いました。
この日はとても暑い日となりましたが、休憩を取りつつ日が暮れるまで作業を続けました。
そして作業の後は、やっぱりみんなで焼肉パーティー!
焼肉パーティーで何があったのか??
今回は今年から日朝友好学生の会@京都の活動に参加するようになった新メンバーにもブログを書いてもらったので、最後はそちらの方に譲りたいと思います☆
9/4から二日間、丹波マンガン記念館の修復作業に行って参りました。参加者には私の知らない方もちらほらといらっしゃったので初めは緊張しました。しかし、鉱山開発当時の強制労働を髣髴とさせるような過酷な作業を炎天下の中で行っている内に、いつしか緊張も解け、皆さんと楽しい時間を過ごすことができました。
夕食では、沢山の焼肉とお酒を頂きました。
そして、何よりも嬉しかったのが記念館の館長さんとじっくりと話をすることができたこと。何十分彼と話したかは分かりませんが、強く記憶に残っている言葉があります。それは「朝鮮人ではなく、日本人が変わらなければならない。」という言葉です。
私は日本人ですが、日本人は朝鮮人に対する加害の歴史を学ばなければいけないと考えています。日本人が朝鮮人との間に本当の友好関係を築く為に、です。そして、加害の歴史を学習する為の場として、丹波マンガン記念館は必要であると強く感じました。
今回のイベントを通じて、私は日朝関係について多くを学ぶことができました。また同時に自分の無知を痛感しました。これからも文献を読んだり、実際に歴史の現場を見ることによって日朝関係について勉強したいと思います。
8月29日、滋賀朝鮮初級学校で開催されたウリハッキョマダンに行ってきました
このウリハッキョマダンは朝鮮学校や南米系外国人学校などの民族学校を支援し、様々な違いをもった人々がともに生きる社会をつくるために2006年から始まった行事で、今年で5回目となります。
去年は曇りがちでしたが、 今年はめでたく晴れ上がりました。その分とても暑い日となってしまいましたが、500人の来場者が訪れたそうです。
今回は日本人学生が2名参加し、在日朝鮮人学生と一緒に唐揚げをあげました。唐揚げを揚げた経験はあまりなく、どうやったらおいしく揚がるのかわからなかったのですが、弁当屋の息子(?)から指導を受け、なんとか上手に揚げることができました。
今回は日本人学生が2名参加し、在日朝鮮人学生と一緒に唐揚げをあげました。唐揚げを揚げた経験はあまりなく、どうやったらおいしく揚がるのかわからなかったのですが、弁当屋の息子(?)から指導を受け、なんとか上手に揚げることができました。
から揚げ屋台でおいしいから揚げの揚げ方について学んでいるその一方で、舞台の上では様々な団体が踊りや歌などの演目を披露してくれました。
コレジオ・サンタナ学園のサンバ
(この後ステージから飛び出るという離れ業も・・・なんと店の前まで来てくれました)
朝鮮舞踊
唐揚げを揚げたり呼び込みをしたりしていたため、なかなかちゃんと見れなかった部分もあるのですが、どれもほんとにレベルが高いと思いました。
のど自慢や抽選会など、すべての催しが終わった後、
最後はみんなで手をつないで円になって踊りました。
去年は恥ずかしくて見ているだけだったのですが、やっぱりみんなでわいわいやるほうが楽しいですね☆
私の左隣にはコレジオ・サンタナ学園のケンコ校長先生が。右隣りは・・・誰だろう?と、こんな風にいろんな民族や国籍の人たちが、みんなで手をとりあって踊るというのはなかなかない経験だと思います。
「マダン」という言葉は「広場」を意味する朝鮮語ですが、これは単に物理的な場所を意味するだけではなく、みんなが集まってつくり出す空間というような、概念的な広がりを持った言葉だそうです。
出店を出し、ステージで歌い踊り、そして最後は会場全体で踊り・・・みんなでつくりだしたこの場は、まさしく「マダン」でした。
今はまだ小さい「マダン」ですが、この日本社会が「マダン」となれるように、これからも活動を続けていきたいと思います
こんにちは。京都のまっきーです^^
やーっと涼しくなってきましたね♪
京都では先日丹波マンガン記念館の復興運動として作業ボランティアに行ってきましたが、今日はそのボランティアにむけて行われた学習会について報告します!
『丹波マンガン記念館ってそもそも何?』 っていうメンバーが集まり、
朝鮮人「強制連行」の歴史と日本社会について時代背景を踏まえながら、
マンガン鉱山が開かれ当時の朝鮮人が強制労働を強いられたことに焦点をあてて学びました。
戦前の日朝関係から見てみると、1910年に韓国併合が行われるまで、日露戦争後の1904年ごろから日韓議定書や第一次日韓協約により、日本は韓国を軍事的・文化的・経済的に取り込み、さらには第二次日韓協約・第三次日韓協約により、1907年までには韓国の外交権や内政権に至るまでを掌握しました。
当時の在日朝鮮人の形成に大きな影響を与え、のちにマンガン鉱山に朝鮮人労働者が従事することとなったことと密接に関係している施策が2つあります。
1つめは、土地調査事業(1910~1918)で、当時の植民地朝鮮において、
日本政府が土地を把握し財源を確保し、またその土地にいる農民を把握するために行われました。しかし調査と言っても申告主義であり、土地を耕している農民に所有権があるのではなく、申請した者に所有権が与えられることとなりました。
当時の大多数の朝鮮人が農民であり、字が読めないことも多く、その法律の意味を理解できない人々が多かったこと、「申告をすれば税金が増える」といったうわさが広まったこともあり、申告しない農民も多くいました。
その結果、朝鮮農民の耕作地が次々と日本人地主や農業経営会社の手に渡り、かなりの農民が地税公課を負担してしまうことになりました。
2つめは、産米増殖計画(1920~1934)で、日本本土の食糧問題を解決するために朝鮮を食糧供給基地にするということでした。
朝鮮農民に米を作らせ、そのほとんどを日本に輸出するというこの施策により、
朝鮮農民の生活はさらに困窮化しました。
これらの施策により、土地も奪われ、仕事も奪われ、作物も奪われた朝鮮農民にとって家族を養うための仕事、それが出稼ぎでした。
第一次世界大戦後に急成長した日本経済は不足する労働力を植民地に求め、1917年前後に日本に渡る朝鮮人の数は大阪を中心に増加しました。
出稼ぎにきた朝鮮人は一定期間が過ぎると故郷へ帰ることが多かったものの、しだいに定住型へと変わり、家族を呼び寄せて住み続ける人が増えました。
しかし、朝鮮人の生活を取り巻く環境はとても厳しく、重労働・賃金の格差や劣悪な住環境、また日本人とは差別的な扱いを受けました。
京都では、朝鮮人に対する偏見や差別から、部屋を貸す日本人が少なかったことや、土木工事に従事した朝鮮人がそのまま飯場に住みついたことなどから、東九条をはじめ京都市内のあちこちに朝鮮人の集住地区が生まれました。
1939年からは朝鮮半島からの朝鮮人の「強制連行」がはじまり、日本各地の鉱山・炭鉱・土木工事などに従事させられました。
上記で上げた二つの施策により仕事を失った朝鮮人に対して、好条件を提示して募集という形で集められましたが、言うまでもなくその条件は嘘であり、また朝鮮の各地域に割り当てが行われ警察がむりやり若者を集めたりと、強制といっても過言ではありませんでした。
朝鮮人労働者たちは①厳しい労働②粗末な食事③自由に外出することの制限など、過酷な状況であっただけに、逃亡を図る者も多かったといいます。
京都府下での労働場所としては主にウトロ(宇治市)と今回訪れた丹波マンガン記念館がある新大谷鉱山があげられます。
新大谷鉱山では、大砲の砲身や銃身などを作るために、マンガンという鉄に混ぜて鉄を硬くする鉱物を採掘しました。
作業中はダイナマイトによる掘削や鉱石を運ぶ仕事で大変危険であり、石の埃を吸い、のちに職業病であるじん肺に苦しめられました。
何をもって「強制」というのか?
韓国併合以前より日本によって計画的かつ着実に逃げ場を奪われてしまった朝鮮人をさらに精神的・かつ肉体的に追い詰め、それでも「強制連行はなかった」という認識は全くの誤りであり、人の自由な意思を抑圧し、またそれに関して無理やりにさせることは、「強制」にほかなりません。
「強制連行」についての政府の見解や、日本人の認識についても話し合ったのですが、日本学校に通った私を含め学習会のメンバーは、「強制連行」というとアメリカにおけるアフリカ系の奴隷のようなイメージを持つこともあり、日本政府の「強制性」についての見解がバラバラであったりするので、今回の学習を通して考える機会が持てたということはボランティアにいくためにはもちろんのこと、これからの日朝関係について考え活動していく上で非常に有意義だったのではないかと思いました。
今回の学習会を通して、従軍「慰安婦」問題や年金問題などをはじめ、在日朝鮮人が抱える歴史的そして現代の問題について学び考える必要性を強く感じたので、これからも定期的に学習会を行うよう進めていきます!
やーっと涼しくなってきましたね♪
京都では先日丹波マンガン記念館の復興運動として作業ボランティアに行ってきましたが、今日はそのボランティアにむけて行われた学習会について報告します!
『丹波マンガン記念館ってそもそも何?』 っていうメンバーが集まり、
朝鮮人「強制連行」の歴史と日本社会について時代背景を踏まえながら、
マンガン鉱山が開かれ当時の朝鮮人が強制労働を強いられたことに焦点をあてて学びました。
戦前の日朝関係から見てみると、1910年に韓国併合が行われるまで、日露戦争後の1904年ごろから日韓議定書や第一次日韓協約により、日本は韓国を軍事的・文化的・経済的に取り込み、さらには第二次日韓協約・第三次日韓協約により、1907年までには韓国の外交権や内政権に至るまでを掌握しました。
当時の在日朝鮮人の形成に大きな影響を与え、のちにマンガン鉱山に朝鮮人労働者が従事することとなったことと密接に関係している施策が2つあります。
1つめは、土地調査事業(1910~1918)で、当時の植民地朝鮮において、
日本政府が土地を把握し財源を確保し、またその土地にいる農民を把握するために行われました。しかし調査と言っても申告主義であり、土地を耕している農民に所有権があるのではなく、申請した者に所有権が与えられることとなりました。
当時の大多数の朝鮮人が農民であり、字が読めないことも多く、その法律の意味を理解できない人々が多かったこと、「申告をすれば税金が増える」といったうわさが広まったこともあり、申告しない農民も多くいました。
その結果、朝鮮農民の耕作地が次々と日本人地主や農業経営会社の手に渡り、かなりの農民が地税公課を負担してしまうことになりました。
2つめは、産米増殖計画(1920~1934)で、日本本土の食糧問題を解決するために朝鮮を食糧供給基地にするということでした。
朝鮮農民に米を作らせ、そのほとんどを日本に輸出するというこの施策により、
朝鮮農民の生活はさらに困窮化しました。
これらの施策により、土地も奪われ、仕事も奪われ、作物も奪われた朝鮮農民にとって家族を養うための仕事、それが出稼ぎでした。
第一次世界大戦後に急成長した日本経済は不足する労働力を植民地に求め、1917年前後に日本に渡る朝鮮人の数は大阪を中心に増加しました。
出稼ぎにきた朝鮮人は一定期間が過ぎると故郷へ帰ることが多かったものの、しだいに定住型へと変わり、家族を呼び寄せて住み続ける人が増えました。
しかし、朝鮮人の生活を取り巻く環境はとても厳しく、重労働・賃金の格差や劣悪な住環境、また日本人とは差別的な扱いを受けました。
京都では、朝鮮人に対する偏見や差別から、部屋を貸す日本人が少なかったことや、土木工事に従事した朝鮮人がそのまま飯場に住みついたことなどから、東九条をはじめ京都市内のあちこちに朝鮮人の集住地区が生まれました。
1939年からは朝鮮半島からの朝鮮人の「強制連行」がはじまり、日本各地の鉱山・炭鉱・土木工事などに従事させられました。
上記で上げた二つの施策により仕事を失った朝鮮人に対して、好条件を提示して募集という形で集められましたが、言うまでもなくその条件は嘘であり、また朝鮮の各地域に割り当てが行われ警察がむりやり若者を集めたりと、強制といっても過言ではありませんでした。
朝鮮人労働者たちは①厳しい労働②粗末な食事③自由に外出することの制限など、過酷な状況であっただけに、逃亡を図る者も多かったといいます。
京都府下での労働場所としては主にウトロ(宇治市)と今回訪れた丹波マンガン記念館がある新大谷鉱山があげられます。
新大谷鉱山では、大砲の砲身や銃身などを作るために、マンガンという鉄に混ぜて鉄を硬くする鉱物を採掘しました。
作業中はダイナマイトによる掘削や鉱石を運ぶ仕事で大変危険であり、石の埃を吸い、のちに職業病であるじん肺に苦しめられました。
何をもって「強制」というのか?
韓国併合以前より日本によって計画的かつ着実に逃げ場を奪われてしまった朝鮮人をさらに精神的・かつ肉体的に追い詰め、それでも「強制連行はなかった」という認識は全くの誤りであり、人の自由な意思を抑圧し、またそれに関して無理やりにさせることは、「強制」にほかなりません。
「強制連行」についての政府の見解や、日本人の認識についても話し合ったのですが、日本学校に通った私を含め学習会のメンバーは、「強制連行」というとアメリカにおけるアフリカ系の奴隷のようなイメージを持つこともあり、日本政府の「強制性」についての見解がバラバラであったりするので、今回の学習を通して考える機会が持てたということはボランティアにいくためにはもちろんのこと、これからの日朝関係について考え活動していく上で非常に有意義だったのではないかと思いました。
今回の学習会を通して、従軍「慰安婦」問題や年金問題などをはじめ、在日朝鮮人が抱える歴史的そして現代の問題について学び考える必要性を強く感じたので、これからも定期的に学習会を行うよう進めていきます!
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